太平洋戦争終戦から78年となる8月に放送する「戦争と平和」をテーマにしたドラマ。
太平洋戦争下、日本軍の戦いを支えたラジオ放送の「電波戦」に携わったアナウンサーたちと戦争との関わりを、事実を基にドラマ化。
天才と呼ばれた和田信賢アナ役を森田剛、新進気鋭の館野守男アナを高良健吾が演じ、和田の妻・実枝子を橋本愛が務める。
国民にとって、ラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった戦争。その裏側とは?
【キャラクター&キャスト】
・和田信賢アナ(森田剛)
戦前から全国的人気があった伝説のアナウンサー。1934(昭和9)年、日本放送協会に入局。相撲や野球の実況放送、ニュース、朗読、演芸番組など幅広い分野で活躍し“不世出の天才”と呼ばれた。太平洋戦争では、開戦の臨時ニュースと終戦の玉音放送の両方に携わった。戦後、ヘルシンキ五輪実況後に客死。
・和田実枝子アナ(橋本愛)
戦前の1939(昭和14)年に入局した女性アナウンサーの草分け。英語が堪能で才媛の誉れ高かったが、開戦翌年に和田信賢との結婚を機に退職し、信賢の仕事を支えた。戦後、ラジオの放送現場に復帰し、昭和最後の1988年までアナウンスの仕事を続け、昭和放送史と共に生きた。
・館野守男アナ(高良健吾)
開戦臨時ニュースを読み一躍名をあげた若手アナ。「アナウンサーは国家の宣伝者」と主張し、日本の勝利を力強く感情を込めた読み方で伝え続けた。しかし、インパール作戦に従軍して戦争の悲惨な現実を身をもって知り、姿勢が一変。終戦の玉音放送を反乱軍の銃口から身を挺して守ろうとした。
・今福祝アナ(浜野謙太)
大正末期の関東大震災で両親と弟を亡くす。情報途絶による災害被害の拡大を防ぐため生まれた放送協会に1938(昭和13)年入局。開戦時、長笠原アナと秘密裏にベトナムに派遣され、偽ニュースで敵軍を攪乱する謀略放送を実施。戦後はテレビニュースキャスターの草分けとして正しい情報にこだわり続けた。
・志村正順アナ(大東駿介)
和田信賢の1期下の後輩として1936(昭和11)年入局。松内や信賢に学び野球や相撲実況の腕を磨く。戦時中、7万5千人が集まった出陣学徒壮行会では、実況担当の信賢の不調で直前に急きょ交代。スポーツで磨いた即時描写力で乗り切る。戦後もNHKを代表するスポーツアナとして活躍し続け野球殿堂入りした。
・赤沼ツヤアナ(藤原さくら)
学生時代は実枝子と同級生、入局も1939(昭和14)年の同期だった女性アナウンサー。紫の和服をよく着た実枝子が“紫の君”と呼ばれたのに対し、モダンな洋服を愛用しぱっちりした目のツヤは”ベティー”の愛称で呼ばれた。戦時中もアナウンサーを続けていたが、1945年3月10日の東京大空襲で亡くなった。
・川添照夫アナ(中島歩)
1937(昭和12)年入局。太平洋戦争中、軍や情報局からの要請を受け、多くのアナウンサーが戦争をあおる情熱的な“雄叫び調アナウンス”になっていく中で、「宣伝・情熱は危険だ」と勇気ある苦言を呈し続けた。しかし軍に召集され、1945年3月フィリピンのミンダナオ海で戦死した。
・長笠原栄風アナ(渋川清彦)
1929(昭和4)年、集金係として入局。米良の個人指導を受け4年後アナウンサーに。潜水艇からの中継などアイデアマンとして頭角を現す。中国で軍に協力した放送実績を買われ、開戦前に軍と南方での放送計画を作成。開戦後はベトナムから偽情報を流す謀略放送を実施して軍のジャワ島侵攻を容易にした。
・中村茂アナ(遠山俊也)
ラジオ放送開始の1925(大正14)年に入局。青年将校らが官邸など政府機関を占拠した二・二六事件では『兵に告ぐ』の名放送で投降を勧告。告知課長としてアナたちを束ね、主観を交えず淡々と読む“淡々調アナウンス”を主導したが、開戦後は館野らの力強い“雄叫び調アナウンス”が主流となる。
・松内則三アナ(古舘寛治)
ラジオ放送開始の1925(大正14)年入局。野球や相撲など日本のスポーツ実況放送の原型を作る。講談調の実況が全国的に大人気で、アナウンサーの大御所として有名だった。太平洋戦争の開戦後は、フィリピンやビルマの放送局長を歴任して、米良や館野ら後輩アナの“電波戦”を陣頭指揮した。
・米良忠麿アナ(安田顕)
1931(昭和6)年に入局した和田信賢の先輩アナ。面倒見がよく後輩から慕われ、事務処理能力が高く開戦後に派遣されたマニラ局ではナンバー2として局長を支えた。子供好きでマニラから家族に宛てた手紙が数多く残る。戦争末期に最後まで現地で放送を続けて米軍の激しい攻撃にさらされる。
【スタッフ】
・作
倉光泰子
・語り
橋本愛(和田実枝子役)